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そよ風と 木漏れ日と・・・
京都市下京区にかつてあった花街(かがい)のひとつ、島原。
昭和の時代に衰退し京都花街組合連合会を脱退したので今の京都の五花街には含まれていません。
(あとの五花街とは祗園甲部、祇園東、上七軒、先斗町、宮川町。以前は島原含め六花街と言っていました。)
その島原の一番大きな揚屋(料理を出して宴会をする場所)であった角屋(すみや)は、1589年に開業され、そのあと二度の移転の後に今の島原の角屋となりました。
昭和60年(1985年)まで、角屋の大広間「松の間」を宴会に使用していたそうです。
現存する唯一の揚屋建築ということで重要文化財となっています。
揚屋建築というのは、料理をつくる大きな台所があること、大きな宴会場があること、その宴会場に面して大きな庭を有すること、庭には茶室を備えていること、その四点が必要だそうです。
角屋の主となる「臥龍松の庭」の八重桜ライトアップが13年ぶりに催され、そのご案内をいただいたので拝見してきました。
着いたときは18時頃、まだ空が明るいときでした。
先月にも訪れていろいろと説明もしていただいていたので、二回目の今回は理解も進み、ますます興味をもつことができました。
正面玄関からもチラリと見えた小さな中庭の緑がとても綺麗です。
「臥龍松の庭」もまだ明るく、残念ながら散ってしまった枝垂れ桜の花びらが地面にたくさん落ちているのがわかりました。それもまた風情があります。
「臥龍松の庭」が命名の由来となっている大広間、「松の間」で、保存会の方のお庭についての解説を聞きました。
このお庭にはお茶室が三つあります。この写真に見えているお茶室は三角形のオープンテラス式になっていて、腰を掛けてお庭を眺めながらお茶をいただけるお茶室です。
庭の名前の臥龍松、一代目は一本の松が龍の伏せたかのように横に伸びた立派なものでしたが、それが枯れて今のは二代目。龍が伏せたように見えるように3本の松が組み合わされています。
この角屋での宴会は、和歌を嗜む会で始まり、お茶もいただき、そのあとお酒、お料理を楽しむ宴、計6時間ほどかかる宴会というのが通常であったそうです。
京都の花街にはどの花街にも歌舞練場という歌舞音曲を楽しむ場所があるのですが、だからこそ、老若男女、子どもからお年寄りまで男性だけでなく女性までが訪れる場所なのです。
この角屋でも、お母さんや奥さんをもてなすために開かれた宴会というのもあったそう。
ただし、ここ角屋での宴会はそれはそれは贅沢なもので、その費用は一人につき今の大卒初任給並だったというから驚きです。財力はもちろん必要でしたが、和歌を詠んだり、お茶の作法も知っていたり、と、楽しむお客側にもある程度の教養が求められたことでしょう。
「松の間」「臥龍松の庭」を語る時、外せないのが新撰組の芹沢鴨の話。
剣豪であり、新撰組の筆頭局長であったのにもかかわらず、酒癖が悪く乱暴狼藉をたびたび働いたために(会津藩の命により?)仲間に暗殺されたというのが定説です。その時にこの松の間での大宴会が催され、しこたまお酒を飲み(飲まされ)、いい気分で壬生の屯所へ帰ったあとに殺されてしまったのです
芹沢鴨が生きている時に楽しんだ最後の景色は、この臥龍松のお庭だったのです。
ほどよく暗くなり、満開の八重桜とツツジが明かりに照らされて浮かび上がって来ました。
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