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そよ風と 木漏れ日と・・・
あの突き当りが今回「円山応挙展」の開催されている承天閣美術館です。
円山応挙(1733〜1795)は日本画の円山派の祖。丹波国桑田郡穴太(あのお)村(現、京都府亀岡市)の農家の次男として生まれたということです。先日、丹波の兵庫陶器美術館へ行ったばかりなので、あのドライブ途中の亀岡でお生まれになったんだーと、少し知った人のような気になります。
300年近く昔のこととは言え、亀岡あたりの山の様子は大きくは変わっていないはず。
著名な弟子に呉春(1752〜1811)がいます。呉春は与謝蕪村について俳諧や南画を学んだ後に応挙のもとへ弟子入りを志願しましたが応挙は断り、そうではなく親友として待遇したということです。
応挙と呉春は互いに影響しあったようです。どちらも写生的な画風。そして呉春の弟子たちが京都の四条近辺に住んでいたことから呉春を祖とする一派は「四条派」と呼ばれます。
応挙と呉春が親しく影響しあったので、後にまとめて円山四条派とも呼ばれるようになりました。
去年の夏に居宅が公開されたので見に行った木島櫻谷(このしまおうこく)、先日京都市美術館で大々的な展覧会があり改めて感銘を受けた竹内栖鳳、どちらも四条派に属します。間接的にせよ応挙の流れも組んでいるわけです。
という訳で、以前おなじく承天閣美術館で円山応挙展があったときには関心のなかったわたしが、今回とても楽しみに見に来ることになったのです。
今回の目玉は「七難七福図巻」「孔雀牡丹図」。
とくに「七難七福図」は三巻と下絵の数々が一室に展示され、それはそれは見応えがありました。
三井寺円満院(滋賀県大津市)の住職である祐常が、教えを説くために画力のある画家として応挙を見込んで発注したというこの絵巻。
難(天災・人災)と福、全長15メートルが三巻です。
天災は容易に想像がつくでしょう。洪水や地震、大火、台風、雷。ちょっとびっくりしたのは人を襲う狼、人を襲う大蛇でした。狼は人の足を咥えていました。
福はとても福々しい場面が並んでいました。祝宴の数々。豊かな食物。米、牛。舟遊びのこどもたち。
ところが人災はというと、口で語るのもおぞましい凄惨な場面が続きます。これはもうR-15指定です。
目をそむけたくなるような場面が七つ。
他には応挙が覚書帳のように書きためた写生の数々。
応挙の時代は日本でも博物学的な学問の兆しがあったといいます。植物や生物を写実的に描き、分類していくのです。
わたしはだいたい精密な絵が好きです。芸術とは離れるのかもしれませんが図鑑の絵も好き。
そして昨年、今年、と日本画を数多く見る機会ができて、その中でも特に木島櫻谷、竹内栖鳳に心惹かれた。
その二人は四条派。四条派の祖、呉春と響きあった応挙。そしてその応挙の博物学的な考えに基づいた写実的な作風。
ここでやっと、なぜわたしが木島櫻谷と竹内栖鳳に魅了されたかという訳がはっきりわかって、とてもスッキリした気分になりました。
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